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永瀬ユキ-コラム・雑文

今の世の中に対する具体的な政策

※大きな画像もあります。   

「ジェンダー平等」とは?

'07.01.04:初出
'07.01.08:一部修正(神永れい子さんの助言も参考にしています)
'07.02.08:写真追加
'07.08.23:色彩など微調整
'07.10.18:写真追加
'08.03.03:新システム対応

「ジェンダー平等」について誤解されている部分が多いため、このページを作りました。
私から強調したいことは以下の三点です。
◎「ジェンダー平等」=「女性保護」ではない
「女性保護」としてしまうから、しんどい立場の男性から「オレだってしんどいんだぞ」とツッコミが入るのです。そうではなく、「男も女もみんな辛いんだ」から話を始めなければいけません。
◎「ジェンダー平等」は「様々な人々の共生」に立つ
「ジェンダー平等」は特定の思想を押し付けるものではありません。そして、伝統や文化を否定するものではありません。人それぞれの違いを認めた上で「様々な人々の共生」を目指す立場です。
◎「ジェンダー平等」は左翼ではない
「ジェンダー平等」は本質的にリベラリズム(自由主義)の一種であり、権威に反対する立場を取るのです。したがって、右翼的なものでも左翼的なものでも「権威主義的な立場」とは対立するのです。

ジェンダーって何やねん?

肉体の性別に対して社会的・文化的な性別を差します。

世界は広く、人類の歴史は長いです。今、私たちが住んでいる世の中のあり方は固定されたものではありません。

社会的・文化的な性別とは、「男は外で仕事、女は家で家事」と言った性別に関する役割、そして、服装や言葉などの「表現の様式」を言います。
もっとベタな言い方をすれば、「世界には男がスカートを穿いている国もあるし、男が家で農業と家事をやって、女が外で商売をやっている国もある」など、日本での「常識」と違う場合もあります。

こうした性別と直結した服装や役割というのは、決して決まったものではなく、その時の社会状況や文化によって大きく違います。そして、社会階層によっても大きく違います。

日本でも、江戸時代以前は男性の服・女性の服に関して明確な境界は無く、男性・女性の間で重なる部分もあった様です。一例として、若い男性が化粧をして振袖を着ていた時代もあったのです。
ヨーロッパで言えば、例えば、ハイヒールの起源は下水が不十分で道が汚かった時代に足を汚さないためのものであり、女性だけのものではありません。
そして、ポパイやドナルドダックはセーラー服を着ているものの、これは水兵の制服であり、女装している訳ではありません。

さらに、性別と「表現の様式」の関連は、「個人の個性」によっても違う部分もあります。例えば女性で「化粧はしないし、スカートは穿かない」という人が珍しく無い様に、「女性であっても男性寄り」「男性であっても女性寄り」の「表現の様式」を取る者はどこにでもいますね。

国立歴史民俗博物館
http://www.rekihaku.ac.jp/research/publication/137witness.html
「今日、振袖といえば、未婚の女性がきる‘きもの’というイメージが強い。だが、近世以前では、男女ともに少年期に着ていた。袖の振りは、着用者が「子ども」であることのしるしであった。」

現在の女子高生の制服でよく見かけるジャケットとチェックスカートの組み合わせは「アイビールック」を元にしています。
この起源をさらに辿ればスコットランドの民族衣装に行き着きます。
スコットランドでは、短いキルト+ハイソックスで、ヒザを見せるのが「男らしい」とされています。
アイビールックスコットランド民族衣装
(左)アイビールックの一例『絵本アイビーギャル図鑑』(愛育社・穂積和夫著)より
(右)スコットランドの民族衣装:“http://www.rom-a-mor.com/”より

性別役割分業って何やねん?

性別によって役割が決まっていることを差します。

「男は仕事、女は家事」が当たり前と今だに多くの人は考えています。

しかし、これはもともと産業化が進む中、企業は「男性を労働に専念させるため」、国家も「富国強兵を目指すため」に都合が良かったので制度化されたものです。
しかし、農民や貧乏な労働者に関しては「家族が総出で働いて、支えあう」が最近まで当たり前でした。だから、歴史的にそうだったという訳ではありません。

「男は仕事、女は家事」に縛られるので「男は家族を養わなければいけないから、長時間労働に文句も言えない」「女は男に従わなければならないから、低賃金でも文句は言えない」様になっているのです。
今は機械化などで仕事の種類が格段に増え、「筋力のある男でなければ」という仕事は少なくなくなっています。そして、コンピュータがあちこちに入り込んでいるので、コンピュータの操作を行なう仕事が増えています。

しかし、男性が主軸を担っている職場に女性が入り込んでくることに「仕事が奪われる」と危機感を持つ人もいるでしょうし、就職できない者から見れば「いい仕事をしていて人生を謳歌しているのが羨ましい」と思っている人もいるでしょう。

そもそもの問題は、社会全体で見れば、企業は儲かっている割に働いている人の総収入は下がっています。
だから、一方で「楽にお金儲けする人」がいれば、一方で「働いても一向に暮らし良くならない人」がいるのです。

現代の社会は成熟しているので、仕事をしたい人は仕事をした分だけ賃金を貰い、介護や子育てがしんどい人は社会的な支援が受けられるようになれば、多くの人が幸せになれるのです。これを「同一価値労働同一賃金制」「福祉社会」と呼び、ヨーロッパでは当たり前です。

男性が病気や事故で働けなくなったので家にいる例や、バリバリのキャリアウーマンと結婚した男性が主に家事や子育てをやっているという例など、一般的な通念で言えば役割が逆転している家族も実際にあります。
映画『クレイマークレイマー』の様に何らかの事情で「男一人で子どもを育てなければならない」という事例も実際にあります。
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail?ty=mv&id=6556

共働きというのは「悪い」様に言う人もいます。
しかし、「家族の中で男だけが働いている」という状態では、もし働き手が倒れたら家族は路頭に迷います。一方、共働きであれば、支えあえるので、安定性が高いという面もあります。

そもそも体が違うのだから男女の違いはあって当然?

人間は芸術や学問など精神的な活動もする存在であって、肉体のみに規定される訳ではありません。

一般的に男性の権力者が多く、男性が責任ある役割を担っている理由は、単に「男性の方が統計的に体が大きく筋力があるから、歴史的に権力を持つようになった」だけのことです。 「歴史的に」とは、例えば狩猟や採集で生きている社会であれば筋力があった方が効率がいいし、戦争でも刀や剣で戦うなら筋力がものを言うという意味です。ただし、女性が宗教的な面で権力者になっていたという場合もあるので一概にそうは言えません。

とは言っても、一般的に体が大きく筋力があった方が人間関係で優位に立てます。これは子どもの学校社会を想像すれば分かるでしょう。
しかし、「男性の方が体が大きく、筋力がある」は、あくまでも統計なので、男性でも筋力の弱い人もいるし、体格の小さい人もいます。一方で女性でも筋力の強い人がいます。
統計的にそうだからといって、全てがそうではないのです。一人ひとりに目を向ければ統計と違う例もあるし、大きくかけ離れた例もあるのです。それを統計だけを見て「全てがそうだ」と決めつけるのは問題があります。

スポーツの競技大会が男女別種目になっているのは統計的な筋力差によるものです。大会ともなればトップクラスの選手が集まるので、筋力に勝る男性が勝ってしまうからです。
しかし、ビリヤードやボウリングなどの場合、練習や「一般人が遊ぶレベル」では男女一緒に行っているのも普通に見られます。そして、競艇の場合は、性別に関係なく競うのが基本です。

そもそも、人間は肉体が全てではありません。芸術や学問など精神的な活動も行なう存在です。
特に音楽を聴けば分かる様に、音楽の良さや歌の良さに性別の違いはありません。

それでは、アイデンティティって何やねん?

「自分とは何者なのか」という確信のことです。

「私は男」「私は女」というのはアイデンティティの問題であって、「私は日本人だ」とか「私は阪神ファンだ」などとそれほど違いはありません。

アイデンティティとは、本人が様々な「生き方のモデル」を試し、自身で獲得するものです。例えば、有名な俳優で、坂本竜馬に憧れていて、一時期なり切っていた例は典型的と言えるかも知れません。

昔の社会であれば、社会の側から「こうあるべきだ」と提示されていました。しかし、今は、様々な本やメディアがあるので、様々な生き方のモデルがあるし、それを自身のアイデンティティとする人がいます。

今の世の中、人は人生の中で様々な社会の一員として生きています。例えば、大学生であれば大学という社会と関わっているし、就職すれば会社の中で生きることになります。その時は、「大学生として」「会社員として」など立場によってふさわしいアイデンティティを身につけることが周囲から期待されます。
だから、アイデンティティというのは決して固定的なものではなく、心境や環境の変化によって変わります。

しかし、自身が選んだアイデンティティと異なるアイデンティティを押し付けるのは、その人にとって大変な苦痛を与えるものです。例えば、熱心な阪神ファンを無理やり巨人ファンにしようとしてもダメなのと同じです。

「理想の男」や「男はこうあるべきだ」も、時代背景によって可成りのブレがあります。例えば「高倉健が理想の男」という場合もあるし、「キムタクが理想の男」という場合もあります。それで、高倉健とキムタクを並べてみれば「全然違う」というツッコミもできるのです。
もっとも、高倉健にしても、キムタクにしても偶像にしか過ぎず、実際はどういう人物なのかは本人しか分からないものです。

結論として、「男はこうあるべきだ」や「女はこうあるべき」というのは、指導者が自身の理想とする男や女の偶像を他人に押し付けているのと同じです。
しかし、これは自身の憧れなので、案外「自分がそうではないから、理想として憧れている」という場合もあります。偶像は個人で崇めている分には構いません。しかし、人に押し付けるものではありません。

「ジェンダー平等」って女性の問題でしょ

ジェンダーの問題は連続性があります。だから、女性の問題の裏側に男性の問題が含まれる場合があります。そして、「力の弱い男性の問題」にジェンダー差別が含まれています。

会社で男性が長時間労働を行う理由は、「男だったら家族を養うことが当然」とされているからで、その背景には性別役割分業があります。
もっとも最近では女性の管理職も増え、女性も長時間働く様になりました。しかし、これは「男並みに働くこと」と引き換えに地位を得ただけです。

長時間労働こそが家族をバラバラにし、極端な場合では家庭崩壊や子どもの非行を起こす要因にもなっています。そもそも、長時間労働の原因である「男だったら家族を養うことが当然」という価値観を疑問視しなければなりません。

力の弱い男性」の問題は、「力の強い者が弱い者を支配する」が当たり前の世の中で、「力の弱い男性」が「女性扱いされる」ことに原因があります。
その証拠に、「女の腐ったような」が「力の弱い男性」に対する最大の侮辱語になっていることに象徴されます。
学校でも、力の弱い男の子は「パシリをやらされる」「いじめられる」場合が多いです。
本来なら、「力の弱い男性」が「より弱い者」、例えば弱い立場にいる女性や障害者の立場を考えればいいのです。しかし、多くの人は「上に苛められるから、うっぷん晴らしに下に当たる」に陥りがちです。

「ジェンダー平等」は「女性保護」という意味ではない

行政では「男女平等」・「男女共同参画」と言えば「女性保護」に陥りがちです。しかし、弱い立場の男性もいることを忘れてはなりません。

本来「ジェンダー平等」は、男性も女性も性別に関らず生きやすい社会を作ろうという意味の筈が、行政の場所では「弱い女性を保護しよう」という方向性になりやすいです。 だから、弱い男性から「オレだってしんどいんだぞ」という恨みを買う原因になっているのです。

弱い立場の男性の抱える問題は女性問題と連続性を持っている場合が多いのです。
例えば、「力の弱い男性」が「女性扱いされる」場合がそうです。そして、派遣やアルバイトが増えた問題もそうです。そもそも、派遣やアルバイトは「女性の働き方」でした。

だからこそ、「健康で筋力のある男性を基準にした社会のあり方」を疑わなければなりません。社会そのものが貧乏人でも楽しく暮らせるようになれば良く、貧乏人や体の弱い者を基準にして社会のあり方を問い直すことが必要です。

もともとフェミニズムとは、「女性の視点から社会を問い直す」運動です。
この考え方は、「貧乏人から社会を問い直す」「障害者から社会を問い直す」「高齢者の立場から社会を問い直す」など他の言葉にも置き換えが可能です。
弱い立場にある者みんなが、それぞれの立場から社会を問い直すことによって社会の問題が浮き彫りになります。

最近は、一部のエリート女性が目立ちます。しかし、女性みんながエリートになっている訳ではありません。収入の低い女性の方が多いのです。そこに目を向けずに、派手な女性だけを見て「女はいいよね」というのは単なる「隣の庭は青い」にしか過ぎません。

伝統文化を否定している訳ではない

もともと「多様な人々の存在を肯定し、互いが共存する道を探る」という考え方なので、「伝統はダメ」と押し付ける訳ではありません。

「伝統的な生き方をしたい」と望むなら「それもいい」、しかし、「そうでない立場も認めてよ」くらいの意味しかありません。

奈良県の大峰山で、女人禁制になっているのを「けしからん」とする一部の人達が登山を強行したことが話題になりました。
しかし、「宗教内部の問題であって、外部の人間が文句を言う筋合いの無い」ことです。
実際に修験道を信仰している女性が本気で修行を望んでいるのにも関わらず、教団側が拒否するというのならまだ理解できます。
しかし、この一件では、修験道とも大峰山とも全然関係の無い者が文句をつけている訳だから、大峰山側から言えば「土足で踏み込まれた」と感じるのも当たり前です。
こうした一部の問題のある言動が「フェミうぜぇ」みたいな反感を招いています。

当然「男らしさ」「女らしさ」を否定している訳ではない。

個人が自己実現のために、自身が理想とする生き方を目指すことは構いません。

「男らしい生き方をしたい」「女らしい生き方をしたい」は全然問題ではありません。そして、人とは違う「らしさ」を追求することも構いません。
ただし、どの様な生き方を選んでも制度的に不利にならないようにしようというのが本来の趣旨です。

少子高齢化と言うけれど・・・

人口が増えすぎているので、少子化はむしろ良いことです。
機械化によって社会の生産力は上がっているのだから、高齢者は支えられます。

親にとって、今の社会状況で子どもを育てることにメリットは少なくなっています。
教育にお金はかかるし、苦労して子どもを大学まで行かせてもまともな職業に付けるのか怪しいのが実情です。

しかも、かなりの若者が派遣やアルバイトなど低賃金の労働か、大会社に就職できても長時間労働が待っています。そうした状況で結婚して子どもを育てようかと思える筈もありません。
だから、今の若者が結婚しない、子どもも作らないというのはむしろ当たり前です。

特にこの国は食料自給率が極端に低い上、資源にも恵まれません。
食料や資源の問題を直視すれば、「現在の人口では多すぎるので、少子化によって人口が減少するのはむしろ良い」と言えます。
だから、「少子化は悪」という認識を変える必要があります。

「人間が多かったら国は強い」というのは時代遅れの認識です。学問や科学技術の分野、そして、文化芸術で世界一を目指せばいいのです。

機械化によって社会の生産力が上がっています。例えば、車1台作るのでも、かつてよりもずっと少ない人数で作れるようになりました。
日本は経済力や技術力で見れば強い国です。本来は社会全体で高齢者を養えばいいのです。

また、電子技術の進歩は目を見張るものがあり、将来的には「ロボットが介護」というのも夢ではなくなってきています。


「ジェンダー平等」とは?(補足)

※2007年9月29日作成

フェミニズムとは、一般に「女性解放」と理解されています。運動としてのフェミニズムの広がりにより、女性の社会参画は当たり前になり、中には社会的な成功を収めた女性も存在するくらいです。
現代では格差の拡大により、貧困層に位置する男性も顕在化しています。したがって、「女性の成功者もいるし、男性の貧困層もいる」と見えるため、「フェミニズムは古い」と考える人も増えています。
しかし、フェミニズムの本質にあるのは「弱者が弱者のまま解放される」であり、フェミニズム運動によって培った理論と実践は、「貧困と格差」が顕在化した現代にこそ有効です。

※以下を読む前に「ジェンダー平等」とは?を読んで下さい。

問題1:格差が作られた歴史の中に女性問題あり

現在、企業は正社員を絞り込み、アルバイトや派遣などの非正規雇用労働者を増やしています。これによって若者のかなりの人達は不安定な労働条件で働いています。今や「大学を出てもフリーター」というのは珍しくありません。

ここで着目しなければならないのは、もともと非正規の労働は「女性の働き方」だった点です。

「女性はいずれ結婚して家庭に入るのが当たり前」といった旧来のジェンダー観が女性の非正規雇用を正当化したのです。ですから、「女性の働き方」が「若者全体に適用された」と見るべきです。

企業から見れば「労働条件は低い方に合わせる」のがいいに決まっています。
最近では正社員に対しても「派遣は安い賃金で良く働いている」「お前らももっと働け」と言った圧力がかかっています。今までの労働運動が「大企業で働くホワイトカラー」のためのものでしかなく、弱い立場の労働者に配慮しなかったことのしっぺ返しです。

このことから、弱い部分を救うことが全体を助けると言えます。

問題2:マスメディアでは成功者の女性が目立ちますが・・・

マスメディアでは成功者の女性が目立ちます。そうした姿を見て「女はいいよね」と不満の捌け口とする男性の声もあります。

マスメディアの本質は「目立つから取り上げる」です。

仮に女性の成功者が珍しくなかったら、そんなに取り上げることも無いでしょう。

実際は、女性のほとんどが決して豊かではなく、全体として見れば、男性より低い賃金で働いています。

問題3:ジェンダー問題はさらに隠蔽される

●家事は「生活の技術」。家事をやったことの無い男性が「生活に困る」ケースも。

●「暴力で女を征服するのが男らしい」といった安易な考えがDV(親しい者の間での暴力)を生む土壌に。

●フリーターや派遣で働く男性が周囲から「いい年をした男が・・・」と言われる。

●「男なら家族を養うことが甲斐性」の決め付けが長時間労働を生み、過労死に至る原因になる。

それでは、どう考えればいいのか・・・

シンプルに言えば「個人の尊厳と解放」です。詳しくは以下になります。

1.多様性の全面的な肯定
「女性は・・・」「貧困層は・・・」と言っても色々な人がいます。だから、特定の集団を想定するのではなく、「一人ひとりはみんな違う」という多様性を全面的に肯定します。
 一人ひとりの多様性に立てば、一人ひとりが自らの課題で動くので、他の集団とも課題別に連帯できる様になります。

2.「自分らしさ」の肯定

モデルとなる集団や生き方を想定するのではなく、「自分らしさ」や「自分の気持ちに正直であること」を肯定します。

3.「生きること」が既に「政治的」
現代では、厳しい現実の中を生きることが十分政治的です。だから、政治活動を追求します。

具体的な方針

●食べられなかったら生きられません。まずは生存権の確立を。
●現在の「世帯単位」の制度から「個人単位」へ。
●地方では多様な人々が政治に参画できる様に、住民自治の徹底を。
●誰でも表現の場所を確保できる様に地方自治体に「掲示板の設置」「市広報の市民への開放」などを求めて行く。
●多様な人々が働ける様に社会協同組合・NPO・社会的企業の活性化を。
●多様性が抑圧されるグローバリゼーションに対抗する政策を。

憲法との関係性


第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

※公共の福祉・・・一般的には「他人の自由を侵害しない限り」と読む

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「個人の尊厳と解放」を目指す運動は、決して過激なものではなく、単に「日本国憲法を実現させること」を国に対して求めて行けばいいだけです。
そして、それは、憲法12条により、国民の義務になっています。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


「性同一性障害」概念がおかしいと主張している理由

※2007年5月5日作成:2008年3月4日微調整

「性同一性障害」に関して、そもそも性別を変えて生きている人間は昔からいるのに「障害」と名づけ、当事者のことを「障害者」呼ばわりするのはおかしい、というのが私の意見です。
その根拠を簡単にまとめます。
なお、関連するページとして「ジェンダー平等」とは?、特にアイデンティティの項目を読めば分かりやすいでしょう。

性別を変えて生きている者は昔から存在しているし、世界中どこでも存在しています

日本では江戸時代の女形が知られていますが、中世の持者・白拍子あるいは、弥生時代の遺跡からも男性の骨と一緒に女性の装身具が埋葬されている例があります。

世界的に見れば、性別の越境が宗教的な超越と繋がり、シャーマン(呪術師)や神官などが性別を変える例、演劇や道化を始めとした芸能者の中に性別を変えた者も存在している例など様々な事例があります。

確かに宗教的な戒律により禁じられている場合もあります。しかし、どの時代・どの文化にも性別を変えて生きる者は存在していたと言って良いでしょう。

「性同一性障害」の本質はアイデンティティ(自己認識)の問題です

「性同一性障害」の本質を一言で言えばアイデンティティの問題です。アイデンティティとは「自分が何者であるか」という確信のことです。
アイデンティティは、人間が成長する過程で確立するものなので、「性同一性障害」という状態は、自身の性別に違和感を感じ、成長とともに逆の性別のアイデンティティと一体化した状態と言えます。

「性同一性障害」の問題によく似ているのが在日外国人の抱える問題です。在日外国人の多くが「ルーツとなる文化を誇りにし、在日外国人として生きて行く」「日本人と同化し、日本人として生きて行く」かの選択に立たされます。
しかし、周囲の差別が強い場合、「在日外国人として生きて行く」という道を取ることが難しく、「日本人として生きて行く」道しか取ることができなくなります。その場合は、自身のアイデンティティと周囲の承認の違いの間で葛藤します。

あるいは、「周囲は阪神ファンばかりなのに、自分は巨人ファン」「自分が巨人ファンだと明かせば周囲の阪神ファンから苛められる」という状況に似ています。

自身のアイデンティティと違うアイデンティを押し付けられたり、変更を強いられれば、当人にとって非常な苦痛を与えます。人類史上を見ても文化や宗教のアイデンティティを巡って多くの命が奪われているし、スポーツでさえも暴動や殺し合いが起こっています。

「他者の自由を侵害しない限り最大限の自由を保証する」が近代国家の原則です。だから、性別を変えることぐらい良さそうです。しかし、現代の日本社会では拒絶されるのが当事者の苦しみです。

例えば、メキシコのフチタン(フーチタン)という町では、服装を変え、役割をこなせば、「その性別」と社会が認知します。つまり、性別の行き来が非常に簡単な訳です。
仮に、日本がフチタンなみに性別の移行に対して大らかな社会であれば、当事者の悩みは苦しみは存在しなくなりますね。

「性同一性障害」概念誕生の理由

性別を変えるだけであれば、最小限、服装の変更と言葉や仕草など表現様式を近づけるだけでも良さそうです。
しかし、医学が発達した現代なら医学的な方法を使うことによって、自身の肉体を希望する性別の肉体に近づけるられます。具体的には、性ホルモンの投与や性別適合手術(性転換手術)などがあります。

当事者にとっての肉体改造は美容整形外科に似ています。例えば、「目が二重じゃないと嫌だから、手術で二重にする」と、「性器の形が嫌だから手術する」はよく似ていますね。

ただし、問題になるのは、性別適合手術を行なえば、生殖能力が失われるため、母体保護法(旧優生保護法)28条の「故なく、生殖を不能にする事を目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」に抵触します。
この「故なく」を「故あり」に変えるために発明された装置が「性同一性障害」だったのです。

※余談ですが、母体保護法28条は「富国強兵」と密接な関係があります。つまり、「産めよ増やせよ」で人口を増やせば、軍隊が大きくなるという理屈です。

「性同一性障害」は「オカマ」「変態」を「障害者」に変える装置

性別を変えて生きる」ということは、現代の日本社会では「オカマ」・「変態」と呼ばれ、差別や排除の対象となります。
「性同一性障害」という概念は、「オカマ」・「変態」を「障害者」に変える装置でもあります。

当事者にとって「性同一性障害」という言葉は「非常に便利な言葉」です。「オカマ」「変態」と呼ばれるよりは、「障害者」と呼ばれた方がいいし、自らを「障害者」と規定することで、行政や企業に何らかの施策を要求することもできます。

しかし、「障害者」なら良くて、「オカマ」・「変態」だったら排除するというのもおかしな話です。
それでは、「オカマ」・「変態」に人権は無いのか?と問いたくなります。
私に言わせれば、この問題は、一人ひとりのライフスタイルの問題と考えるべきです。

そもそも、「男」「女」って固定的なのか?

町の中にいる「男性」と「女性」を観察すれば、誰一人として同じ人はいません。
女性と言っても「スカート穿かない、化粧しない」という方も結構いるし、技術系では「自身の職業を誇りにしている」という女性も少なくありません。
そして、例えば「作業服を着て仕事をする」職業の場合、「男も女も変わらない」という場合も結構あるのです。

また、視点を「歴史」や「世界」に移した場合、「男性のあり方」や「女性のあり方」は、それこそ様々な例があります。例えば、男性がスカートを穿いている国があったり、日本でも元禄時代では男性が化粧をして振袖を着ています。広い世界・長い人類の歴史には多様な文化があり、その中には現代の日本人から見れば奇異に映る場合すらあります。

だから、そもそも「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」というのは存在しません。あえて言えば、「その人その人の憧れ」が存在するのみです。
怒られるのを承知で言えば、「男らしい男」は「男が憧れる男」であり、「女らしい女」は「男が好きになる女」でしかなく、「現実には存在しない」のが実態ではないでしょうか。

「だからこそ」と言えるのかも知れません。「性別の変更を望む当事者」の「性別観」は固定的な場合が多いです。これは、成長の過程で拒絶されたことの反動と、そもそも骨格が違うので「そうしないと望みの性別に見えない」という理由もあります。

しかし、「当事者みんながみんなそう」と言う訳ではありません。
実際は「一般的な男性や女性」以上に幅があり、「色々な人がいて、色々な生き方がある」のが真実です。

当事者にとって医療とは?

当事者にとって医療は美容整形に近いと書きました。
それでは、当事者の全てが医療を望んでいるのかと言えば決してそうではありません。
なぜなら、肉体への負担があるし、元に戻らないからです。

当事者から見れば、医療の利用は「レストランのメニューを選択する」感覚に似ています。

例えば、ある者は「ヒゲの永久脱毛のみでいい」と言うし、「性別適合手術(性転換手術)までしないと納得できない」と言う者もいます。

しかし、日本の医療では「段階を踏んで」の形式、つまり、「第一段階、カウンセリング」「第二段階、ホルモン投与」「第三段階、性別適合手術」みたいな感じになっているのです。

これは、当事者から見れば、「あの人は手術まで行っている」「私はホルモン投与」など、「レベル」みたいに見えるため、階層を作ってしまう要因となっています。

当事者にとって重要事項、「パスする」「パスしない」とは?

医学の進歩は凄いものがあります。しかし、決して完全ではありません。

医学が出来ることは、「外見をできるだけ望みの性別に近づける」にしか過ぎず、望みの性別そのものにできる訳ではありません。

マスメディアでは「この人が男?」と驚かせるような事例が紹介されますが、当事者みんなが「望みの性別」として社会に埋没できる訳ではありません。

当事者の世界でよく言われる「パスする」「パスしない」とは、英語で言う「パッシング」、つまり、「通用するのかどうか」ということです。

実態で言えば、「通用する場合」が希で、多くの場合が「どっかでバレる」様です。

実は「一時的に逆の性別になる人」も案外多い

「完全に望みの性別で過ごしたい、しかし出来ない」、「時々、逆の性別になるのがいい」、「男としての仕事や生活が捨てられない」など、人それぞれの理由で「一時的に逆の性別で過ごす人」もいます。

「性同一性障害者」として「完全に望みの性別で過ごす者」は、往々にして、そうした者との違いをアピールします。つまり、「私は趣味ではない」「私は女装者ではない」を強調することで人の承認を得ようとする訳です。

しかし、それぞれの立場にそれぞれの苦しさがあり、一概に「一時的に逆の性別で過ごす人」は「程度が軽い」訳ではありません。

また、「性別を変える」行為そのものが、少し前までアンダーグラウンドだったため、「女装クラブ」や「ニューハーフ」などアンダーグラウンドな世界との連続性があります。
決して「性同一性障害者の世界」が「女装クラブ」や「ニューハーフ」の世界と懸け離れたものではありません。

まとめ:「性同一性障害」の問題点

●「障害者だから受け入れる」という社会の貧困さ。
 それでは、「オカマ」「変態」には人権は無いのか。
 「様々な人が共存している社会の方が豊か」という発想が無い。

●「障害者」とすることによって、当事者の多様性が見えなくなる。

●「男」「女」と言っても色々な方がいる。
 「性同一性障害」は、「男」「女」を固定的に見ることが前程になっている。

●当事者を「障害者」と「オカマ」「変態」に分けてしまう。
 「女装クラブ」や「ニューハーフ」の世界にいる人は「オカマ」・「変態」で、診断書を持っている者は「障害者」なのか?


講演会:『性同一性障害と性の多様性』(07.10.28/和泉市)

2007年10月28日に和泉市立人権文化センターで行った講演会の内容を掲載します。
この講演会を企画した人権文化センターの関係者には感謝しています。

和泉市立人権文化センター 永瀬ユキ

「性同一性障害」については、テレビなどでよく語られています。
しかし、「性同一性障害」という言葉が普及する中、見えにくくなった部分もあります。
今回は、今までとは違う切り口で「性同一性障害」を語り、その裏側に隠れてしまったニューハーフ・女装者・同性愛者など「多様な性を生きる当事者」にスポットを当てます。

<今回の強調点>
◎そもそも、人間は自ら思考し、文化を紡ぎだす存在です。だから、「人間は肉体に規定される」という意見は、人間存在の本質から言ってもおかしいです。
◎「男性」「女性」と言っても、その時代や地方の社会のあり方によって異なります。例えば、世界には男がスカートを穿く社会もあるのです。
◎「男が強く、女は弱い」というのは単に「統計的な筋力の違い」でしかありません。世の中には力の強い女性もいれば、力の弱い男性もいます。
◎この国で生き難さを感じている人が増えているのは「憲法が実現されていない」からです。個人の尊厳も生存権も憲法に書いてあります。

1.「性同一性障害」は「作られた障害」である

◎「性同一性障害」とは

「身体の性別と心の性別(アイデンティティ=自己認識)が一致しない状態」と言われています。

「性同一性障害」という言葉は、1996年から使われるようになり、社会的に広く普及しています。しかし、性別を変えて生きる人の存在は、江戸時代の女形や、中世の白拍子(しらびょうし)に代表される様に歴史上の資料からも確認されています。
→1996年以前には「性同一性障害」は無かったのに、性別を変えて生きる人は存在していた。

※メキシコのフチタンの例
メキシコのフチタンという町では、肉体がどうであっても服装を変えれば、社会的に「その性別」として扱われます。
つまり、メキシコのフチタンでは、「性別を変えて生きる」ことは当たり前なので、「障害」とは見なされません。

◎「性同一性障害」成立の背景

医療 :
当事者が望む性別適合手術(性転換手術)を国内で行うことは、母体保護法28条(*1)に反すると考えられている
    ↓
「障害者だから手術が必要」とすれば、正々堂々と手術ができる
当事者 :
性別を変える行為は「オカマ」「ヘンタイ」と呼ばれていた
    ↓
「オカマ」「ヘンタイ」を「障害者」に言い変える装置としての「性同一性障害」
    ↓
「障害」とすることによって、正当化できるし、権利を主張しやすい

「障害者だから認める」というのもおかしな話です。「世の中には色々な人がいるし、いても良い」という立場に立たなければなりません。

※これは「障害者」の認定が無い「軽度の障害を持つ者」についても同じです。「障害者」の認定が無いために健常者との「競争」が要求されます。

(*1)母体保護法28条:
「故なく、生殖を不能にする事を目的として手術又はレントゲン照射を行なってはならない」

◎当事者にとって「性別を変える」とは?

(1)服装を変える(2)逆の性ホルモンを投与する(3) 性別適合手術(性転換手術)
上記以外にも以下もあります。
男性→女性
・・・ヒゲや体毛の永久脱毛・豊胸手術・顔を女性的にするための美容整形
女性→男性
・・・乳房切除

    当事者と医療について
  1. 当事者がみんな医療を求めている訳ではなく、服を変えるだけで良いと言う人も多いです。
    →そもそも性器を見せて生活している訳ではありません。
    →手術やホルモン投与は肉体に負担がかかるので、持病や高齢などの理由で出来ない人もいます。
  2. 当事者にとっての医療はレストランのメニューの様に、各人が自由に選択する感覚です。 つまり、人によっては「永久脱毛だけで良い」「永久脱毛とホルモン投与」など色々な組み合わせがあります。
  3. 性別適合手術(以下単に「手術」)とホルモン投与以外は一般の美容整形外科でも可能です。
  4. ホルモン投与は、外国から個人輸入で購入するか、産婦人科医に頼む方法があります。
  5. 手術は国内で殆ど行われていないのでタイに行く者が多いです。

当事者にとっての手術→ 「大規模な美容整形」と同じ
→ 「性器が嫌だから変える」のは「まぶたが二重になりたいから手術する」のと酷似しています。
しかし、日本の医療では手術がなかなか行われないので葛藤があります。

※ホルモン投与・・・逆の性ホルモンを投与すれば、例えば男性の場合は、胸が出てきたり、肌のキメが細かくなるなど、体が逆の性に近づく。

2.性別の社会的な側面

性別には社会的な側面があります。これをジェンダーと言います。
例えば、役割(男は外で仕事・女は家庭で家事・育児)や服装(男はズボン・女はスカート)などです。

しかし、ジェンダーは文化や時代によって異なります。
例えば、スコットランドのキルトの様に、男がスカートを穿く文化もあります。

そして、「男は外で仕事・女は家庭で家事・育児」という性別役割分業は、筋力のある男を労働に専念させることができるので、富国強兵・殖産興業に有利なため、奨励され、労働者も理想としたので体制となっただけです。
しかし、低所得層や農民の場合、「一家総出で働く」のが当たり前です。
その上、「男は家族を養うのが甲斐性」とされた上での長時間労働や、「女は男の補助」とする女性差別などの問題を含んでいます。

一般的に「男性と女性の違い」とされているものは、統計的な筋力の差に由来する場合が多いです。
「筋力が強い」→「人を力で支配できる」
肉体が自己意識と結びつく→「俺は力が強い」を内面化し、そういう風に振る舞う

その一方で、「筋力の弱い男性」は男性の中でも抑圧される。
 Ex)「女の腐った様な」

※現在の女子高生の服装はスコットランドの民族衣装が起源
女子高生の制服で主流になっている「無地のブレザージャケット+チェックスカート+ハイソックス」の組み合わせは、「アイビールック」に起源があり、その起源をさらに遡ればスコットランドの民族衣装に行き着きます。
アイビールックスコットランド民族衣装
図左:アイビールックの例『絵本アイビーギャル図鑑』(愛育社・穂積和夫著)より
図右:スコットランドの民族衣装
スコットランドでは、ヒザを見せるのが「男らしい」とされます。

3.多様な性のあり方

◎性的指向と同性愛

自身が恋愛や性の対象として向かう性別のことを「性的指向」と呼びます。
「性的指向」は、一般に自身の性別と逆の性別に向かうものとされています。
しかし、同性に向かう者やどちらでも良いという者もいます。
特に、男性で男性を好きになる者のことを「ゲイ」と呼び、女性で女性を好きになる者を「レズビアン」と呼び。両方を好きになる者を「バイセクシュアル」と呼びます。

性的指向と性別の越境は「別の次元」です。→ゲイは必ずしも女装している訳ではない。

注:ゲイにも色々なタイプの人がいます。もちろん、「おネェキャラ」「女性的でなよなよとしたタイプ」の人もいます。しかし、そうした人だけがゲイではありません。

◎半陰陽者(インターセックス)

身体の性別が典型的な「男性」「女性」に当てはまらない人を半陰陽者(インターセックス)と呼びます。
→ 例えば、性器の形が中間的であったり、両方の性器を持っているなど

◎トランスジェンダーと性同一性障害

性別を変えて生きる人々、または、「休日に女装する」など、一時的に性別を変える人も含めてトランスジェンダー(性別の越境者)と呼びます。

先に上げた「性同一性障害」とは医療による診断名です。
→ トランスジェンダーは、本人の服装の好みなど「表現様式」や自身のアイデンティティを含む広い意味を持ちます。だから、「性同一性障害」とは位相が異なり、範囲が広いです。

トランスジェンダーの中には「性同一性障害」の診断を得る人もいれば、そうしない人もいます。

◎「女装者」の世界について

    普段男性として暮らしていても「女装したい」と思う人は結構います。
    そうした人のために、「変身する場所」と「遊ぶ場所」を提供するお店があります。
  1. 女装ルーム:主に昼間の営業・・メイクルーム・談話室・写真スタジオ・ロッカーの貸出など。
  2. 女装スナック:女装者を対象とした「夜のお店」。飲食物を提供し、カラオケもある。

「女装者」は「性同一性障害」とは別物の様に扱われる場合が多いし、当事者の中には「完全に女性になりたい訳ではない」と言う人がいます。
しかし、「本当は女性になりたいが、男としての生活を捨てられない」と言う人もいるので、切り離せるものではありません。

◎「夜の商売」の世界について

「性別を変えて生きる」という生き方は一般には難しいので、客に飲食物を提供するお店やダンスなどを見せるお店で働いている者もいます。
ニューハーフがよく知られています。
その他にも女性が男装して飲食物を提供する「オナベバー」または「ボーイッシュバー」と呼ばれる種類のお店があります。

◎セクシュアルマイノリティと連続性について

以上の様な「多様な性」を生きる当事者のことを「セクシュアルマイノリティ」といいます。
この「セクシュアルマイノリティ」について、一般に「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「インターセックス」と細かく分類します。→「LGBTI」と呼ぶ

しかし、実際は相互に重なる部分もあります。
→ 女装者で男性が好きな人はゲイの世界に入ることもあります。
→ 自認はゲイなのに「相手に受け入れられやすい様に」手術で肉体の性別を変える人もいます。

また、同性愛者の性的指向を問えば、多様な世界があります。
例えば、私、永瀬ユキの場合、恋愛の対象は女性です。
私自身、「男性であること」が受け入れ難いから女性になったのであって、恋愛の対象としても男性が受け入れられないのです。
さて、レズビアンの中には「戸籍が女性で無かったら嫌だ」という人もいれば、「手術してなかったら嫌だ」という人もいるし、「女装者でもOK」という人もいます。
私はどうかと言えば、元男性だし、手術もしていません。私としては、それでも「レズビアン」だと言いたい所ですが、それを「レズビアン」と呼ぶのかどうかは議論が分かれます。

4.「性同一性障害」顕在化の問題

◎「性同一性障害」の前程とする「男」「女」とは何か?

性同一性障害について、一般的には「心の性と体の性が一致しない」と言われています。
しかし、その「性」とは何なのでしょうか?

女性の中には「スカート穿かない、化粧しない」という人もいます。
あるいは、「理想の男性」「理想の女性」と言っても人によって言う事が違います。
また、インターセックスなど、もともと両方の性の特徴を持っている人もいます。
   ↓
だから、単純に「自身の性別に関するイメージと社会での扱われ方が違うから苦しむ」と言った方が適切です。

◎「性同一性障害」と「女装者」の関係

性同一性障害の診断を得た者は、テレビや講演などで「女装者と違う」「趣味では無い」と言う場合があります。
そして、女装者は「医師の診断を得ていない」という理由で「正統でない」と見られる場合があります。

しかし、実際は重なる部分があり、決して独立している訳でありません。

「完全に女性になりたい」と思っている人が、最初は女装者の世界から入って行くことはよくあります。

一方で、女装者にも「(女装していることを)どうやって隠すか」苦労しているし、あるいは、「会社にバレて居づらくなった」「家族にバレた」など悩みを抱えている場合も少なくありません。

決して「性同一性障害者」だけがしんどい訳ではありません。

◎ヒエラルキー(階層)の問題

「診断書を持たない女装者」と「性同一性障害の診断を持っている者」の間で階層が生まれます。
その上、「性同一性障害」の治療は、精神療法(カウンセリング)→ホルモン治療→手術と進むので、「上に上がるほど偉い」と思いやすいです。

また、特に男性から女性に移行する者の場合、どうしても外見で比べあう様になるので、階層が生まれます。

よく、メディアで「本人が男だと言わなければ分からない」という外見の人が出てきます。
しかし、実際は必ずしもそうではなく、どこにでもいる様なおじさんの外見で「実は女性になりたい」と言う人の方が多いくらいです。

※余談・・・もし、仮にアーノルドシュワルツェネッガーの様な男性が「実は女だ」と言ったらどうなるでしょう。

※「パッシング」・・・「どれだけ望みの性別で社会的に通るか」という意味です。俗に「パスする」「パスしない」と言います。

※ヒエラルキー・・・士農工商の様に人間を序列つけることをいいます。(「ハイアラーキー」ともいう)

◎「性同一性障害」が他者への圧力となる場合

「性同一性障害」の顕在化により、社会に対して「性同一性障害」としての生き方・・・医療を受診し、手術を最終目的とする・・・しか提示されず、それ以外の情報が分かりにくくなります。

それによって、本来は異性装だけで良い人や、「男性的な性格の女性」「女性的な性格の男性」に対して「医療を受診し、手術を強制する」圧力になる場合があります。
→「お前は性同一性障害だ。手術しろ。」

また、同性愛者の中には「自己表現」として「女性だけど男よりも男っぽい外見をする」様な場合があります。そうした人にも「男になれ」という圧力になります。

余談:「水戸黄門の印篭」としての診断書
診断書を持っていれば「正統な者」と見られるため、当事者の側から見れば「何としてでも診断書が欲しい」と思う場合があります。
そうした場合、「典型的な性同一性障害」を書籍や当事者の話などを調べ、それを内面化しようとします。そして、医師の前で演じようとします。
→医師から見れば「典型的な当事者が来た」となる。
しかし、そもそも、内心は他人に分からないため、「本人が性同一性障害と言えば、そう診断せざるを得ない」のが実態です。

余談:「コンビニチェック」とは何か
コンビニエンスストアでは、店員がレジ打ちをする際に、最後に赤のボタンか青のボタンを押します。これを「コンビニチェック」と呼び、どれだけパスしているのかを知る目安になります。

5.当事者の直面する問題


◎周囲の無理解による偏見の問題

子どもがセクシュアルマイノリティであった場合、親の無理解・周囲の偏見・いじめに晒されて苦しむ場合があります。
特に思春期の頃は自身の存在について悩む中、性への悩みを持ちやすいです。その中で「自分はヘンタイではないのか」と自分で自分を追い詰める状況に陥りやすいです。

または、性同一性障害に関する情報しか得られず、一時的に「女装したい」と思うだけだったり、本来は同性愛者なのに、「自分は手術しなければならないのか」と悩むこともあります。

学校などでは、制服が定められている場合、女子でスラックスを選択できるようにすることや、制服そのものを選択できる様にするなどの配慮が必要な場合があります。

◎「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の問題

2004年に施行された「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下「特例法」)(*2)によって、一定の要件を満たせば正式に性別を変更できる様になりました。
しかし、要件に、「手術を行なっていること」「現に子どもがいないこと」「現に婚姻していないこと」の要件があり、完全に適合できる当事者が限られる上に、適合できない当事者への差別が強まる可能性があります。

そして、手術には肉体的な負担が強い上に高額の費用がかかるため、健康上の理由や経済的に手術を受けられない者もいます。

そもそも、性別越境者への差別があるのは、書類の性別が変更できないからではなく、性別越境者への偏見があるからです。
したがって、法的条件を整えるよりも、「偏見をどう取り除くのか」が重要です。

◎雇用・労働の問題

セクシュアルマイノリティであることが勤務先にバレた段階で採用を拒否されたり、配置転換などにより、退職に追い込まれる場合があります。

確かに「女装を理由とした解雇は無効」との判例(*3)があるものの、特例法成立により、「法的に認められた当事者」は認める一方、そうでない当事者は認めないという風潮もあります。

◎社会生活上の問題(特に性別の越境者に関して)

  1. 名前は「永年使用」を理由にすれば誰でも可能です。
    (ただし、家裁によって認められない場合がある)
  2. 免許証に性別記載が無いので、一般的な生活では困ることはほとんどありません。
  3. 住民票の続柄記載に関しては、世帯主でなければ省略できるという方法があります。
    →私見では、住民票の続柄記載を省略すれば、当事者の問題の大半は解決できる。
    (*2)性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
    法律第111号(平15〔2003〕・7・16公布、平16〔2004〕・7・16施行)
    以下の条件と2人以上の医師の診断で性別の変更を認める法律。
  1. 二十歳以上であること。
  2. 現に婚姻をしていないこと。
  3. 現に子がいないこと。
  4. 生殖腺(せん)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
  5. その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

諸外国の場合、手術を要件として性別の変更を認めている国は多いです。しかし、「現に子がいないこと」の条件は他には見られません。
また、英語で性別を変更した者を差す「transsexual」には「自己決定で性別を変えた」という意味であり、「障害者」という意味は含まれていません。

(*3)昭文社事件(2002年6月20日・東京地方裁判所)
女性の服装・容姿で出勤したことなどにより、会社を懲戒解雇となった当事者が「地位保全」と「賃金・賞与の仮払い請求」の仮処分を求めた裁判です。
これに対して裁判所は「懲戒解雇事由に該当せず、または懲戒解雇としての相当性が認められず、権利の濫用として無効」との判断を下しました。

6.差別の要因は何か?

◎レッテル貼り(スティグマ)が差別の要因

人が正体不明の他者に遭遇した際に「あの人は○○だ」とレッテルを貼って判断する場合が多いです。
例えば、「あの人はオタクだ」などがそうです。
そして、一度レッテルを貼られると、レッテルに付属するイメージで判断されます。
「オタクは外見に無頓着」というのはまだいい方で、宮崎勤事件が注目されていた頃は「オタク」と言うだけで「変質者」と判断される場合もありました。

人は他者と出会った時に、レッテルを貼って判断する場合があります。
しかし、レッテルを貼れば、レッテルのイメージに左右される様になり、「個人としての個性」が見えにくくなります。

「関西人」と言えば、他の地方に住む人にとっては「阪神ファン」というイメージがあります。
しかし、関西に住んでいる人が必ずしも阪神ファンでは無いのは当然です。

「あの人は同性愛者だ」「あの人は性同一性障害者だ」と言うのは簡単です。
しかし、それでは人間を「同性愛者」「性同一性障害者」といったレッテルとしてしか見ない結果になり、一人ひとりの多様性が分かりにくくなります。

◎「集団別権利」運動の袋小路

レッテル貼りを解消する方法として、今までは、共通する項目でグループを作り、グループで「我々は差別されている」と社会に対して運動を起こすのが通常でした。
→例えば、黒人が「黒人」という共通項で集まる「公民権運動」が典型例です。

    しかし、この方法を取れば、以下の問題点があります。
  1. 社会から見て「集団としての特殊性」がますます強調される。
    →「歌と踊りを愛する沖縄県民」というイメージを普及させれば、一方で、沖縄県民の特殊性が強調されます。・・・「一般市民」の中の「特殊な人々」イメージを喚起
  2. 他の苦しい立場にある者から「我々も苦しいのだぞ」と「恨みを買う」ことがある。
    →「部落解放運動」が反感を買っている理由は、部落への差別意識が含まれているものの、例えば、ワーキングプアから見れば「部落ばっかり優遇しやがって」と見えるからです。
  3. 集団内の多様性が見えなくなる
    →同じ同性愛者でも、「金持ちの同性愛者」と「貧乏な同性愛者」では直面している状況が違うし、ニーズも違います。・・・特定の団体や個人が集団を代表できるのか?

確かに、例えば「同性愛者の悩みは同性愛者にしか分からない」部分があります。だから、同性愛者で助け合う部分は必要でしょう。

しかし、「集団別権利」に凝り固まり過ぎれば、「特定の少数者集団」と「一般市民を含む多数者」の「対決」を煽り立てることになり、他の人との連帯や協力関係が得られにくくなります。
だから、大枠の「テーマ別・ニーズ別」に連帯する部分が必要です。

例えば、労働問題に直面した性同一性障害者は、他の労働問題に直面している人とも助け合って行くという方向性です。
テーマ別・ニーズ別に他の集団と連帯する過程を通じて、他の集団との相互理解が可能という側面があります。

◎レッテル貼りを解消するにはどうすればいいか?

◆一人ひとりが発言し、社会に参画できる様にすること
「レッテル貼り」を撥ね除け、一人ひとりの多様性を社会に知らしめるためには、一人ひとりが社会に対して発言して行くことが重要です。
例えば、ワーキングプアにしても、存在を知られなかったら「社会的に存在しない」のと同じです。
当事者がマスメディアや自治体など「公の場」で発言して始めて問題が明らかになるのです。

だから、特に地方自治体でこそ、様々な人々が発言と参画できる場所が必要です。
→審議委員会の市民への解放や住民なら誰でも参加できる市民会議の開催など

◆しかし、立場の弱い者ほど発言や参画の機会に恵まれない
発言力の強さと地位の高さは比例しています。
つまり、地位が高い者ほど発言力が強い、逆に見れば、発言の場が少ないものほど地位が低いとなります。
したがって、地位の低い者にこそ発言の場が与えられるべきというのが人権に取り組む上で必要になってくる考え方です。
しかし、地位の低い者ほど、発言できない様に「させられている」部分があります。
だからこそ、地位の低い者が、または、立場の弱い者が、「力をつけ」、社会に対して「発言し」「参画する」ことが必要となってきます。
これを「エンパワーメント」といいます。

7.今後の展望

そもそも、全ての人に最低限の生活を保証することと、個人が尊厳されることは日本国憲法に記載されています。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
※公共の福祉・・・一般的には「他人の自由を侵害しない限り」と読む

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

年間3万人を超えると言われる自殺者の多さに象徴される様に、この国で生き難さを感じている人が多いことこそが、憲法が実現されていない証拠と言えます。
そして、憲法には98条と99条があることを忘れてはなりません。

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律

「経済の貧困」と「関係の貧困」

生田武志さんによれば、貧困には「経済の貧困」だけでなく、「関係の貧困」があるとのことです。
http://www1.odn.ne.jp/%7ecex38710/modernpoverty.htm

以下の図は、生田さんの図を参考に作り直したものです。

「経済の貧困」と「関係の貧困」


この図は分かりやすいし、非常に重要な指摘が含まれています。

右側は、社会的に孤立している状態です。
人にとって、「社会から隔離されている」状態にあるのは死ぬほど苦しいことです。

これは、現代に生きる多くの若者がそうだと思います。
一人ひとりが分断され、孤立している状況に多くの人は置かれています。

相談しようにも相談できる場所を見つけるのは困難です。

仲間探しとは言っても、自分の「思い」を語れる場所がなければ、どうやって探すのか見当もつかないのは確かです。

一方、左側は「貧しくても仲間に囲まれている状態」です。
これは、松本哉さんの『貧乏人の逆襲』の世界だと思えば分かりやすいです。

確かに多少貧しくても仲間がいれば精神的に支えになるし、どうにかなる場合があります。

ただし、ここには「落とし穴」があります。

大金持ちや大企業の経営者など「世の支配者」にとって、貧しい人が「貧乏でも明るく楽しく」生き、適当にガス抜きもするのは都合がいいのです。

悪徳な社長なんかだったら、「あの人たちは貧乏でも楽しく生きているじゃないか」と他の人に対しても給料を下げる「口実」になるでしょう。

ですから、「貧乏なのは私のせいじゃない!」という視点も一方で必要です。
関係を作りながら、それを同時に経済的・制度的な要求の力にすることが求められています。
関係の豊かさと経済の豊かさを同時に得られるように立ち上がりましょう。

格差拡大社会の現状(08/1/4勉強会資料)

◎相対的貧困層とは

 ・・・可処分所得が全体の平均の半分以下の層

◎OECD(経済協力開発機構)の対日経済審査報告書2000年のデータ

    順位 国 名    相対的貧困率
  1. アメリカ   13.7
  2. 日 本    13.5
  3. アイルランド 11.9
  4. イタリア   11.5

◎95年頃から貧困層の固定化が起こっている

質の高い教育が受けられないため、競争のテーブルに乗るまでに格差が開く
※「機会の平等」の前提条件→(1)全員参加(2)非差別

◎富が集中するとバランスが崩れ、社会に多くの問題を残す

  1. 経済の停滞 →低所得者が余分なモノを買わなくなる。高所得者もそれほどモノを買わない。 →人々がそれなりに豊かで余分なモノも買う様になれば、ベンチャーや「スキ間産業」的な中小企業も活性化する
  2. 貧困層の増加が社会制度の崩壊を招く ※非正規雇用労働者の増加→年金・保険の企業負担を社会に転嫁 →生活保護などの社会的コストの増大→日本の国際競争力が低下する
  3. 人的資源の視点 ○裾野の部分が豊かでないと一流も生まれない →野球などプロスポーツの場合も、二流・三流プレーヤーの層の厚さ、一般競技人口の数が発展の必要条件 ○中堅技術者や整備・メンテナンス要員の技術・技能水準が落ち、労働条件も悪くなっている。
    →製品の質が低下・現場での事故が多発
  4. 希望格差の問題 「学歴が低くても真面目に働けばそれなりの生活が出来る」の崩壊により、希望が持てなくなる。 →努力を放棄・犯罪の増加要因になる
  5. 環境負荷の視点 ○100円ショップ→安物を買って、ダメになったら捨てる ○「エコな生活」はお金と時間がかかる
  6. 健康格差の視点 ○高度な予防医学を受けるには費用がかかる ○健康食品やフィットネスなど「健康産業」の利用も同様 ○インスタント食品とファーストフードの生活は「体に悪い」のは知られているが、貧乏人はそうせざるを得ない面もある。そもそも、セレブは食べない。

◎「作られた」格差社会

  1. 高所得者に有利な税制 →所得税率の最高額が75%から37%に変更されている
  2. 企業の公的負担も国際的に見て低水準 →日本:7.6%・ドイツ:9.1%・イタリア:11.7%・フランス:14.0%
  3. 賃金の企業間格差が大きい →日本では大企業の賃金を100とすれば、中小企業の賃金は50くらいしか無い →アメリカでも大企業が100なら中小企業は58の差。ヨーロッパでは70を超えている

◎政策の課題

  1. 雇用条件格差の抜本的是正策の必要性
  2. 公教育の充実強化→教育格差の是正
  3. 社会保障の充実・セーフティーネットの強化
    →社会保障のカットが格差の拡大に拍車をかけている
  4. 地域間格差の是正策 →農村の貧困化・過疎化が食糧自給率の低下に拍車をかけている

◎社会運動の観点から見た対応方法

  1. 新しいユニオン(労働組合)を作る 従来の労働組合(オヤジ系労働組合?)では若者を受け止められない
  2. 社会協同組合 新しい「働きの場」を創造
    ex)商店街の空き店舗を若者に開放し、若者の仕事を作ると同時に商店街を活性化させる

「格差社会の行き着く先・・・」市民社会フォーラムML:高野善通氏の投稿(07.11.26)より

(1)昨日J2への降格が決まったヴァンフォーレ甲府。J1チームの中では予算規模は最下位といえる小クラブ。それもそのはず、山梨県の県都とはいえ、全国的に見れば地方都市の一つである甲府を地盤としている。昨年こそ昇格したばかりのチームへのデータ不足もあり大健闘したものの、J1昇格、そして昨年健闘の立役者となったチームの主力・バレー選手を大クラブであるガンバ大阪に引き抜かれてはひとたまりもなかった。

(2)今年のプロ野球フリーエージェント戦線。ヤクルトスワローズから西武ライオンズへ石井一久投手のFA移籍が決まったが、引き抜いた西武ライオンズからは和田一浩選手の中日ドラゴンズ移籍が有力視され、さらに中日ドラゴンズの福留孝介選手はメジャーリーグか讀賣ジャイアンツにFA移籍するといわれる。ここでも、小クラブの有力選手を大クラブが引き抜く「格差」構造が見えてくる。

(3)ライブドア堀江元社長・被告人の行為。「カネ」の力で有力企業を次々に買収して経営権を握り、会社の時価総額を元手にさらに次の買収を仕掛ける。しかも、この行為の論拠となるのは資金だけ。すなわち、モノを作っているわけでもない「虚業」である。そもそも資本金600万円の企業が10年で8000億の企業になるためには、計算上一年あたり企業規模を3.25倍にする必要がある。すなわち、600万円を年利225%でヤミ金融から借りて、10年後に8000億円になるという計算なのだから、こんな行為のウラに「犯罪行為」がない方がおかしいとさえ言える。

さて、格差社会では、大きなカネの力をもとに、小さなモノを買い取ってしまうという行為が頻繁に起こります。しかし、その悪影響は次のような形で出るのです。

(1)大経営者はカネさえあれば、対象となる企業や人材の「本来の価値」をはるかに超える買収を行おうとする。これは、同業他社の競争力を殺ぐという目的のケースもあり、本来大経営者にとって余剰の人材や企業であっても買収しようとする。カネにモノをいわせた形の大経営者による非効率的経営になる。大企業による競争なしの独占経営がまかり通り、消費者にとってマイナスになる。

(2)しかも、大経営者は人材や企業、そしてマーケット全体の限界を知らないケースがあり、さらに企業価値を高めるべく買収を仕掛けても、費用対効果の面ではどんどん小さくなる。それでももっと企業価値を高めようとして無理な買収に走り、それが法令違反という一線を越えることもある。

(3)ヘッドハンティングされた人材や企業も「本来の価値」をはるかに超える値段がつけられることによって、本人やその企業が「ハングリー精神」を失って慢心する。本人や企業のモチベーションが下がり、本来持っていた価値ほどの働きができなくなるケースが多い。

(4)一方、大経営者は身内のコストには敏感である。例えば役に立たない人材は容赦なく切り捨てるため、あるいは取引コスト削減のため、下請け企業相手にはハラスメント・暴力的態度で接する。あるいは、顧客にバレなければよいという「偽装」も行う。このケースでは、高いコストをかけてヘッドハンティングしたはずの人材や企業も対象となる。

(5)いかに優秀な能力を持った小企業の人材も、カネの力で大経営者に持っていかれるのが当然という社会では、小企業はいかに頑張っても報われない、というムードが社会全体に流れる。社会全体の「カネの力で最初がダメならいかに頑張っても報われない」ムードによる沈滞が起きる。これで、もともとの大経営者がインチキ姿勢をしていれば、ますます絶望感が深くなるので深刻である。

(6)上記のような社会においては、小企業はますます「貧すれば鈍する」事態に陥り、次々に崩壊していく。底辺層があるからこそ大企業が成り立つのであって、底辺が蝕まれていけば、それは大企業にも大きな影響が出る。また、このような業界は顧客である市民の信頼を失って業界全体が縮小することもある。

(7)生まれながらの社会格差が絶対的なものとなれば、下層部にならざるを得なかった立場の方の不満が思わぬところで暴発する危険性がある。また、各企業が徹底したコスト管理経営を行うことにより、社会全体の人間関係が悪い意味で緊張したものになる。その行き着く先は、9・11は言うに及ばず、凶悪犯罪など社会治安が悪化となって現れる。

【性同一性障害】医療が決めたガイドラインの問題

2007/11/5作成
関連記事:「性同一性障害」概念がおかしいと主張している理由

これから取り上げる「性同一性障害」の「ガイドライン」は、「性同一性障害者」という狭い世界の話です。
しかし、「障害者と医療」の問題とも繋がり、ひいては、医療と人々との関係を見つめる上でも有意義です。

ガイドラインとは何か

以下に全文が掲載されています。
http://www.jspn.or.jp/04opinion/2006_02_20pdf/guideline-no3.pdf

医療の側から見れば、医療機関を訪ねた当事者の扱い方について、一定の指針を示したものです。
当事者の側から見れば、ガイドラインに従った医療機関を受診すれば、第一に診断書を得られる、第二に「正式な医療」の安心感があるというメリットがあります。

ガイドラインと「その他の医療」

今まで、性別の越境を求める当事者は、ニューハーフの業界や女装者のコミュニティを通じて医療情報を得ていました。

ホルモン療法であれば、医師の判断で可能です。
当事者の間で出まわっている「理解のある医院」の情報を得て利用するか、自分で産婦人科医を問い合わせる場合もあります。

しかし、性別適合手術(性転換手術・以下は単に「手術」)は、医療倫理の問題が絡むし、母体保護法に触れます。
だから、隠れて手術を行なっている医療機関を利用するか、タイに行くかの方法を取るのが一般的でした。

以上の様に、今までは「当事者が独自に医療を利用する」という状況でした。
ガイドラインは、こうした状況の中、一定の「統一的な指針」を作ろうとの趣旨で、精神医療が中心になって作ったものです。

ガイドラインの概要

当事者から見れば、精神療法(カウンセリング)→ホルモン療法→手術と「精神科医の判定」を受けながら進む様になっています。

精神療法
・・・カウンセリング・精神的なサポート・カムアウト(親に打ち明ける)の検討など
ホルモン療法
・・・逆の性ホルモンの投与
手術
・・・第一段階として睾丸摘出や卵巣・子宮摘出、第二段階として性器形成

逆の性ホルモンを投与すれば、以下の変化があります。
元男性・・・胸が出てくる・肌のキメが細かくなる・髪が女性的になるなど。
元女性・・・体毛が濃くなる・生理が無くなるなど。

ただし、ホルモン投与の効果は「体の状態が逆の性に近くなる」だけであり、「逆の性そのもの」になる訳ではありません。
そもそも、骨格は変わらないし、顔が変わる訳ではありません。

そして、「副作用が強い」という問題があります。

※男性アイドルが女性ホルモンを投与しているとの話もあります。
確かに週刊誌のゴシップ程度の話ではあるものの、極少量であれば中性的になるだけなので、ありえない話ではないと思います。

※「飲む育毛薬」として知られる『プロぺシア』は弱い抗男性ホルモンです。
『プロぺシア』は男性型脱毛症の薬として国内で正式に認証されているので、ガイドラインとは関係ありません。

ガイドラインの功罪

    意義:
  • 今まで「裏社会」の様なイメージがあった「性別の越境」を正式なものにした
  • 当事者にとって「どこへ行けばいい」のか分かりやすい
  • 当事者が精神科を受けやすくなった
    問題点:
  • 自分で情報を調べて医療を利用した者を「非公式の医療を利用した」と除外する傾向が強まる
  • 「職業的利得を得るためではないこと」の項目があり、ニューハーフなどの職業に対する差別に繋がりやすい
  • ガイドライン対応の医療機関が非常に少ない上、地域的に偏りがある
  • 国内で手術を行う医療機関が実質上存在しないに等しい状況
  • 精神医療全体で見ると性同一性障害に理解を示す医師は少数派であり、理解の乏しい医師も存在している

ホルモン療法の実態

ガイドライン上では、ホルモン療法に進むためには「逆の性での生活を試みる」との項目があります。
しかし、「ホルモン療法を行わなければ逆の性での生活が難しい」という面もあります。
なぜなら、逆の性の外見に近づけなければ、パッシングが難しい人が多いからです。

※パッシング:社会生活で、逆の性として「通るか」「通らないか」

インターネットが無力化するガイドライン

  • 今までニューハーフや女装の世界と関わらなければ入手できなかった情報が「どこでも」入手できる様になった。
  • ホルモン剤は海外から個人輸入で購入可能。性別の越境までは望まない男性でも、外見を中性化させたい、ハゲを治したいからとの理由で購入する人もいる。
  • 手術はタイに行って行う人が多い。タイでは「医療立国」化が国策的に行われていて、手術もその一環。「日本よりも優秀」と言う当事者も多い。(「ヤンヒー病院」で検索すれば情報を容易に見付けられる)
  • タイの場合、「誰でも手術を行う」訳はなく、診断書が必要。

こんな問題点も

  • 「ガイドラインに乗った当事者」が「乗らない女装者」を低く見る場合もある。
  • ガイドラインが「認証を得ながらステップアップ」となっているので、「ランク付け」の様に見える。
  • 精神科医の視点が「パッシングできるか」中心になりがちで、パッシングできない当事者はホルモン療法や手術に移行できない。
  • ガイドラインそのものが「典型的な男性」「典型的な女性」中心になっているため、「中間的な性でありたい」など「多様な性を生きる当事者」を抑圧する。
    また、医師が理想とする男性像・女性像を当事者に押し付ける場合もあり得る。
  • 当事者から見れば、「診断書を得る」ために「典型的な当事者」を医師の前で演じる。
    または、当事者が自ら「典型的な当事者」を内面化する場合もある。

医療は正義なのか

医療は必ずしも正義という訳ではなく、様々な学派のせめぎ合いがあり、昔は正統とされていた医療が今は「間違っている」と変更される場合さえあります。

例えば、ある種の精神病者に対して脳を直接手術するロボトミーがそうです。

特に精神医療の場合は、社会からはみ出した者を「異常」と決めつけて「治療」の対象とする性格があります。
例えば、同性愛者はかつて治療の対象であったし、社会意識があり、自立心が高い女性を治療の対象とするケースさえ歴史的にはありました。

また、医師も人間なので、功名心があります。新分野を開拓するフロンティアとなって「歴史に名前を残したい」とは多くの人が思うものです。
そうした中で、新学説の提示・新しい治療方法への挑戦も行われます。

つまり、医療が決して「正しい」という訳ではありません。
だから、今、最も問われているのが、医療と利用者との関係性です。

医療側が情報を全て公開し、利用者が選択できるようにするのも今や当たり前になってきています。

障害学での「医療モデル」「社会モデル」

医療は、社会の中で「異常」とされた人を治療して社会に帰すという側面があります。
   ↓
Ex) 病気で社会生活が出来ない人を治療する

したがって、その本質として「社会を問わない」性質があります。
問題が発生する全ての原因を当事者に求め、「当事者を治療する」ことで解決しようとします。
しかし、「社会問題の蓄積」が当事者に現われる場合が精神医療ではよくあります。
   ↓
Ex) イジメが原因で登校拒否になった

障害者について言えば、障害を医療で完全に治療することは不可能です。
例えば、「足の不自由な人」に「他の人と同じ様に歩け」というのは暴力に近い話です。
だから、「社会を当事者に合わせて変える」という視点が必要です。

障害学では、医療からの視点を「医療モデル」と呼び、社会を変えることで当事者の住みやすいようにする視点を「社会モデル」と呼びます。

「医療モデル」では限界があるのは明らかです。

社会は永遠不変のものではなく、変化して行くものだから、「社会を変えよう」という視点も重要です。

そして、主導権が医療にあるのか当事者にあるのかを問わなければなりません。
仮に医療にあるのであれば、それは「医療による当事者支配」となるからです。

※障害学・・・障害者を研究する学問

社会そのものが寛容であれば問題は少ない

「医師の診断書」は実質的に「水戸黄門の印篭」として使うことができます。
なぜなら、医師は一般的に「権威がある」とされているからです。

また、自治体などで診断書を持つ者を「保護の対象」としている場合がしばしばあり、その場合は、診断書を持たない者は「保護の対象外」とされます。

したがって、「猫も杓子も診断書を得るために医療を受診」するということが起こります。

その上、医療や当事者団体、自治体の啓発事業までが「典型的な当事者」を「スター化」させる場合が多いです。

こうした状況は、当事者にとって「典型的な当事者」を演じるようにする圧力として働きます。あるいは、「典型的な当事者」のみが正統で、そうでない者は邪道という雰囲気を生み出します。

ただし、それの背景として「性の多様性に不寛容な社会」があるのは明らかです。

「性の多様性」は人間の多様性でもあります。
なぜなら、「性のあり方」は、「人間のあり方」の核心に迫る部分があるからです。
しかも、「男らしくあれ」など特定の「あり方」を他人に押し付けることは、その当人にとっては迷惑な話です。

仮に社会が「性の多様性」に寛容であれば、多くの人が生きやすくなるばかりか、多様な考え方が社会に反映されるので、文化・経済面でも有益となります。


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